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「売れりゃいい」体質 [雑談]

 このblogは基本過疎っているから、まぁ、ボクがギャーギャーと喚いてもあんまり意味ないんだけど、それでも言いたくなることもある。少し青臭いと分かってはいるんだけどね。

 ボクは、特に最近は、アニメの質が相当下がってるのことからよく喚いているわけだが、これは何もアニメに限ったことではないらしい。
 別に驚きもしなければ、分かっていたことではあるけれど、どうしてこういう世界になっていくのかな。物の本質なんてどうでもよくて、商売になればそれでいいようだ。

 プライドなんてどこにもないのかもね。プライド? それで飯が食えるの? とか言いそうなくらい。売上が全てという主義においては、「心」も「プライド」も無用の長物なのだろうか。

 ま、噂というか話にくらい聞いたことはあった。ゲーム雑誌としては大手の「ファミ通」の捏造についてだ。興味がある人は「ファミ通 捏造」などでググってみるといい。
 先日何とはなしにWebを見ていたら目に止まったもの。事が真実かどうかは断定するに至らないものばかりだが、こういう話が出ること自体不名誉なことである。
 ボクも、昔からこの雑誌を信用などしていなかった。いや、ホントの昔は違ったけどね。ゲームが「商売」としての地位を不動にした頃からは、どうにも胡散臭かったというか。
 レビューの点数には、何というか「大人の事情」がありそうだし、ベヨネッタの一件はさすがに酷い。なぜPS3のベヨネッタが「ベヨ劣化」などと言われるかということだ。

 ベヨネッタというのは、セガが発売元のアクションゲームだ。Xbox360とPS3で発売された本作は、なんとPS3版はフレームレートが落ちる等、Xbox360版よりも些か劣る部分があったらしい。
 これは、単に「ゲーム機としては」PS3よりもXbox360の方が高性能であるためだそうで、元々、開発元はXbox360でしか開発していなかったらしい。
 しかし、発売元のセガとしてはPS3でも出すべきと主張、開発元が提出した資料によってセガ自身がPS3版を開発したという背景があるのだという。
 元々Xbox360用として開発されていた作品を、能力の劣るPS3で動かすには無理があったのだろう。結局、セガはXbox360と同等という程には出来なかったようだ。
 それ自体は、販売上の理由とPS3の事情であって悪いことではない。極端な例ではあるが、PS3で出たゲームをPS2でも出すとしたら、劣化していても仕方のないこと。

 そこに出たのがファミ通の「捏造」騒ぎだ。ベヨネッタのプレイ動画における話で、Xbox360でプレイしたものを、PS3でプレイしたものとしたらしい。
 しかも、プレイ中の手元は、コントローラーを隠したいのかテロップで埋まっていたという。この件についてエンターブレイン社からは何も発表されず、問題動画は削除されたそうだ。

 少なくても、日本の市場でのシェアを見れば、PS3が優位なのは揺るがない事実。そのPS3版がやや劣化する代物だとすると売上にも響くし、性能差を宣伝することにもなる。
 そう考えたとしても不思議はないところだろう。だから、PS3版もXbox360版も差なんてなく、ただ2つのハードで出しますよ、と思わせたかったのかもしれない。
 これが事実とすれば、報道という精神からすれば、恥ずべき行為なのは疑いないだろう。もっとも、こうした雑誌と業界との関係を考えれば、癒着はあって当然なのかも知れないが。
 何もゲーム雑誌に限った話ではない。業界に関する雑誌である以上、その業界あっての物種。業界は売り込みたい、雑誌は業界の情勢が売上に響く、とくれば疑われるところだろう。

 ぶっちゃけた話、こういう事件が起きなくても、ファミ通の記事が利権に絡んでいるであろうことは想像に難くなかった。無論、それを裏付ける証拠はないし、想像の域を出ない。
 だが、実際にプレイしてみればそう思うのも無理からぬこと。例えば、FFなんてあり得ない話だ。オール10点とかね。普通に面白くないのに。ユーザー評価も散々だ。
 まぁ、この際そういう細かいことに対して今更言っても始まるまい。本当に今更、である。事実がどちらの方向を向いているにせよ、「そういう印象を持った」雑誌であることに変わりはない。

 一番問題なのは、「そういう体質」そのものだ。これは、何も「ファミ通」のエンターブレイン社に限らないだろう。冒頭で書いた通りのアニメや、もっと広い分野でも然りだ。

 日本では、特に2chなどの住人などは、よく韓国や中国、北朝鮮などの姿勢を批判する傾向にあると思う。ボクはたまにしか2chは閲覧しないので断定できないが、そういう印象はある。
 無論、それを非難するつもりもないし、それらの国を擁護するつもりもない。ていうか、更々ない。しかし、日本とてそう誉められた姿勢というわけでもないだろう。

 今やかなりの部分に浸透した拝金主義。アニメやゲームなどという、クリエイティブでアーティスティックな分野ですら、まず「金」である。
 面白いとか素晴らしいとかじゃない。「売れるかどうか」だ。売る側としては当然否定するだろうし、そうであると断定する根拠はない。これも、あくまでそういう印象という話だ。
 だが、こうしたものに触れれば触れるほど、そう思わざるを得ないところ。さっぱり面白くない、というものでも「超大作!」とかいう売り込みは聞き飽きたレベルである。

 一時社会を騒がせたホリエモンやら、国民のほとんどが納得していないにも関わらず、証拠が挙がらないから問題ないと言い切る与党のお偉方やら、もはや国民性とさえ言えるかも知れない。
 金がなければ始まらない、というこの図式は寂しいものだよね。本来、良い物は良いからこそ売れるというのが正常ではないのか。
 当然、宣伝などの営業努力も「売れる」要素だし、そうした努力を否定するわけではない。しかして、ファミ通の捏造騒ぎのように、売れさえすればなんでもいい、なんてのはどうなのだろうか。

 良い物を良いからこそ宣伝する、ではなく、「良い物のように宣伝する」なんて、騙しているのも同然ではないのか。それでも、売れれば問題ない? 苦情が来なければ気にしない?
 よくよく目を凝らして見れば、こうしたものは存外多いのではないだろうか。今聞いてるアーティストの曲、本当に素晴らしい曲? 素晴らしいと「思わされてる」曲? とかね。
 物の良し悪しを「誰かの言葉」に頼ってはいないだろうか。「どこどこの何々はいい」という風聞に惑わされてはいないだろうか。

 しかし、消費者というのは、よほど勤勉でない限り、1つ1つの「物」に対して知識を持ち合わせていない。何が良くて何が悪いのか知らないことも珍しくない。
 ことに「群集主義」でもある日本人という奴は、「みんなと一緒」を意識し、マイノリティを嫌う傾向がある。メジャーであることに「優位性」を感じ、マイナーを「劣等」と見なすこととてあるほど。
 ここに、宣伝の誘惑が入り込む余地があるのではないだろうか。よく知りもしない分野については、「メジャーであるか否か」が「売れる」ポイントだということだ。

 だから、逆算的に「メジャーであるかのように印象付けられれば、物の良し悪しとは関係なく売れる」ということになるのかも知れない。
 まぁ、アニメ関連では散々書いてきたことでもある。そして、そのたびにコーヒーの話を持ち出したような気がする(笑)。
 要するに、味の分からない奴に本格ドリップコーヒーなんて出しても意味はない。それっぽく見せかけたインスタントで十分だ、ということ。
 たまにバラエティ番組とかであるよね。「本当に高価なワインと安物のワインを飲み比べて当てる」とか。笑い話として、安物のワインをしたり顔で「これが高いワインだ!」とかやってるわけだけど、これって実は結構笑えない。
 自分の意見を、自信を持って言える分野なんて、そうはないだろうからね。自分では自信を持っていても、それが本当に的を射ているかも分からないし。

 例えばどうだろうか。未発表の全くの新作というライトノベルを、挿絵も表紙すらない、完全に「活字だけ」という状態のものでいくつか読み、どれが面白かったかという「自分の感想」を出す。それらが実際に販売され、その「売上」が高い物と一致している自信があるかどうか、とか。
 ボクなら、たぶんあまり一致しない。それが、「ボクの感性が一般からかけ離れているから」なのか、「売る側の思惑が介在しているから」なのかは分からないところではあるが、自分が踊らされてるかも知れない、と考えを巡らせることは出来るのではないだろうか。

 結局のところ、ユーザーは自身の「目」を磨くしかないわけだが、それも簡単には出来ないことだろう。結果、やはり耳に心地よく聞こえてくる声に傾きやすい。
 ファッション雑誌とか見ても分かるよね。「今年の何々はコレでいく」とか、なんで感性の話なのに断定だっちゅーねん、とかさ(笑)。

 そうだな。『化物語』の第1話にこんな台詞がある。
 「いいんじゃないか? 一見民主主義っぽくて」
 これは文化祭の出し物の相談をしている際、リストの中からどれがいいかと選んでもらおう、という発言に対する答えである。言葉通り、多数決で決まるから民主主義にも見えるところ。
 しかし、実際には違う。本当に台詞通り「民主主義っぽい」に過ぎない。何故なら、「選ばせられる側」は「選ばせる側」の提示したリストからしか「選べない」からだ。
 だから、ここには「選ばせる側」の思惑が介在する。「選ばせる側」が「選んでほしくない物」を除外したり、「選ばせたい物だけ」並べることも可能である。
 つまり、「選ばせられる側」は「選ばせる側」の手のひらにいるようなものだ。これでは、「選ばせられる側」は「本当に選びたい物」を「選んでいる」と言えるのだろうか?

 無論、こうした図式には利点もある。解決が早いのだ。雑多な意見が飛び交うようでは、事態を収拾するのが難しい。また、「選ばせられる側」もあれやこれや難しく考える必要がない。
 選ぶ種類が多すぎると「選ばせられる側」も混乱しやすいため、予め選択肢をスマートにしておくのは効率的と言えることだろう。
 まぁ、ここまで書けば分かると思うが、こうした効率化の結果として今があるのではないだろうか。そして、それが当然になってきた今、「選ばせる側」の思惑が介在している「選択肢」になってはいないか? 「選ばせる側」に都合のいい「選択肢」、つまりは売上が上がりやすい、効率的な「選択肢」を「選ばさせられている」かも知れないのではないだろうか?

 ホント、「売れれば何でもいい」という体質、「バレなければいい」という姿勢、色々と叩かれてはいるというのに、全体的に染み付いているとしかボクには思えないところ。
 ここのところ紙面を騒がしているTOYOTAのリコール問題も、こんな話を聞いたことがある。曰く、ブレーキが利きにくいことは分かっていたが、改善すると音がうるさくなる。静かな方が売れるから、わざとああしていたのだ、というもの。
 噂にすぎない話ではあるが、事実とすれば、ユーザーの安全性よりも売上を優先したことになる。日本を代表する企業ですら「売れれば」「バレなければ」だとすると恐ろしいところ。
 企業なんてそんなもん。社会なんてそんなもん。言ってしまえばそうなのかも知れないが、やりきれないものがあるなぁ。どこまで行っても「金」、か。
 昔ながらの職人気質やプライドなんて、もう邪魔でしかないのかもね。たぶん、こういう意見を出すと「それで飯が食えるのか」って話になるんだろうし。

 こうした世の中でどうにかするって難しいのだろうなぁ。やはり、偽りの情報に惑わされないだけの「目」と「耳」を持って、情報に強くなる必要があるのだろう。
 といっても、まぁ、自身の感性を否定する必要はないけどね。周りがなんと言おうが、自分がいいと思えば、いいと言い張って問題ないわけで(笑)。
 逆に、周りがどんだけ持て囃そうが、ダメなものはダメだ。要するに、「売れてること」や「話題になってること」が即ち「素晴らしいこと」と、容易くイコールで結ばなければいいだけの話。
 ボクの場合、さし当たってはアニメやらゲームやら、何ともオタク文化なわけだけど、それとて「オタク文化キモーイ」と知りもせず否定する人は、まさに難聴盲目ということ。

 とりあえず、自分の目で見て、耳で聞いて、そして考えて結論を出す。ただそれだけのこと。だからこそ、「見るからに地雷だなぁ」ってアニメとかも苦痛ながらも全部見るし(爆)。
 グダグダと書いてはみたが、こんなのはあまりに「今更」なことだったり、みんな分かった上で踊っていたりするかも知れず、単にボクがガキ臭さを捨てきれてないだけかもね。
 ま、何にせよ「情弱乙」とか言われないよう気をつけるとしよう。
 ていうか、話ナゲーよって方が問題か(ぁ

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