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今更時間跳躍について考える [コラム]

 誰の役に立つんだか、存在意義そのものが怪しいボクのコラム(ぁ ぶっちゃけ、blogを書くネタがないときにちょいちょい書き殴っているのだが(爆)。

 さて、今回は時間跳躍について。『ドラ〇もん』やら『時を〇ける〇女』やら、媒体を選ばず用いられることが多く、大抵の人は生まれてから1度くらい、何某かで触れたことのあるテーマだろう。現実では、少なくても現在では明らかに夢物語だというのに、人は過去や未来に思いを馳せる。
 しかし、このタイムスリップというやつを、もう少し真面目に考えていくとどうなるだろうか。そのメカニズムは事象が存在しない以上、当然存在し得ないわけだが、論理的に紐解くことは出来るのだ。故に、もし、タイムスリップが可能であるなら、という前提における話となる。

 さて。まず、タイムスリップを考えるとき、前提として考えなければならない点がある。「時の流れ」というものだ。といっても、時間そのものを考えるわけではない。
 グダグダと説明しても分かりにくいので、簡単な例え話をするとしよう。

 ある日の夜、Aくんは好物のパンケーキを、少し「明日の分」として取っておきました。しかし、翌日食べようとしてみると、なんとカビてしまっていて食べられませんでした。
 カビるくらいなら昨日食べてしまえばよかった!と思ったAくんは、タイムマッスィ~ンに乗って昨日へと戻り、パンケーキを食べて満足しましたとさ。

 タイムスリップが可能とするとき、上の例え話は何の変哲もないように見えるだろう。
 本当にそうだろうか?
 実は、ここで考えなければならない点があるのだ。それは、「時間の流れというものは、唯一無二のものなのかどうか」だ。つまり、たった1本の川のように時間は流れているのだろうか。これは、論理的に少し考えると見えてくる。

 もし、時の流れが唯一無二としたとき、実は上記の例え話は成立しない。

 1.パンケーキを取っておく
       ↓
 2.パンケーキがカビる
       ↓
 3.後悔して時間を遡る
       ↓
 4.パンケーキを食べる

 これが一連の流れなのだが、「時の流れが唯一無二」であるなら、「パンケーキを取っておく」という行動を取らずに、「夜のうちに全部食べた」ことになる。つまり、歴史的な見方をするのであれば、食べずにカビたという歴史が、全部食べたという歴史に変わったのだ。
 だが、考えてみて欲しい。「夜のうちに全部食べた」のは「何故」なのだろうか? 無論、翌日にカビることを「知って」いるからだ。
 そこで「時間が唯一無二かどうか」を考えたとき、唯一であるならば、「歴史が変わった」時点で、「変更前」の歴史は消滅する。ということは、「翌日のために取っておいてカビてしまう」歴史はなくなるわけだ。
 そうすると、「カビていたから過去へ戻った」という歴史も消える。当然、「過去へ戻ってその日のうちに全部食べる」という歴史も消えてしまう。
 結果、残るのは「翌日のためにパンケーキを取っておく」という最初の状態であり、この時点のAくんは「翌日にカビる」ことを「知らない」ため、「取っておく」行動に出る。

 このように、例え時間を遡れると仮定しても、「時間の流れが唯一無二」であるとした場合、タイムスリップが成立しない。因果律という考え方で言えば当たり前の話で、物事には原因があり結果があるものだ。結果を得るための原因が消滅すれば、自然結果も消滅する。
 つまり、逆説的に言えば、過去へのタイムスリップを是とするためには、「時間の流れが唯一無二」であってはならないのだ。それ故に考えられたのが「平行世界」という概念で、この世界には可能性の数だけ(実質無限)平行世界が存在するという。

 要するに「もしあの時こうしていたら、どうなっていたか」ということが、実際に行われたという「可能性の未来」が実現した世界が、今いる自分の世界とは別に存在するということ。可能性の数だけ存在するのだから、つまりは複数の「時間の流れ」が同時に存在する。
 そうであれば、上記例え話でいうところの、「歴史が変わったから、変更前の歴史が消滅する」ということがなくなり、因果律における原因と結果が成立する。

 これによって、タイムスリップそのものの成立は可能となるのだが、しかしてこれが喜べるかどうかは別問題だ。
 今まで触れてこなかったが、落とし穴はもう1つある。そして、平行世界の概念を取り入れたとき、そこに更に落とし穴が発生するのだ。

 1つ目の落とし穴とはなんだろうか。実は、過去へタイムスリップするとき、最も障害となるのは「自分」である。
 「現在の自分」が過去へ向かうとき、その過去の時間軸において、当然、「過去の自分」が存在する。「過去」から見て「未来の自分」が現れたとしても、「その時の自分」は「未来から戻ってくる」など知ったことではない。
 どんな理由があるにせよ、その「過去へと向かう理由」に遭遇する瞬間にならなければ、当然知りえない。過去の自分が知っているはずがない。
 とすれば、何事もなかったかのように(というか、過去の自分は実際何事もなく現在へと至ったのだから)過ごしているわけだ。

 このとき、この世界には「自分」が2人いることになる。よくいうタイムパラドックスなどいうものは、「時間が唯一無二」であるときの話なのだが、これは、今まで語ったように、論理的に成立し得ないことから、世界的に矛盾した存在である「過去」と「未来」の同じ存在によって、世界の論理が崩壊し、世界そのものが壊れるというものだ。

 平行世界を是とする以上、この心配はないのだが、自分が2人いるということは不都合そのものだ。やってやれなくはないとはいえ、同じ人間が二人いるというのは問題以外の何者でもない。「どっちも本物」なのだから、自身の存在としても危険と言える。
 こうなってしまうと、「過去へ向かう理由」を除去した場合、「もとからいた自分(つまり、未来から遡ってきた自分ではない自分)」が過去へ向かうことがなくなり、その世界にはずっと「自分」が2人居続けることになる。
 ということは、遡った世界で自分が自分であるためには、「もとからいた自分」が過去へ向かうまで息を潜めている必要があるだろう。

 これでは、何のために過去へ遡るのか分かったものではない。「結果として遡る理由を取り除いた」場合であれ同じことで、「自分が2人いる」ことは覆せないのだ。
 ここまで考えてきて、もう1つの落とし穴に気づいただろうか。上記のように「何かしらの手段で回避したい未来を回避させる」ことは、成立はしても「未来から遡った自分」は「もう元には戻れない」ことを意味するのである。

 それはどういうことか。実は、そう難しい話ではない。
 Aくんがいた元々の世界を「世界A」としよう。この世界において、Aくんはパンケーキをカビさせてしまったので、時間を遡るわけだ。
 これによってAくんは、「パンケーキがカビてしまったことを後悔したAくんが過去に遡った世界」である「世界A'」へとやってくる。
 「世界A'」は「世界A」とほとんど何も変わらないが、時間軸が夜に戻ってることと、「世界AのAくん」がいることが違う。「世界A'」には「過去のAくん」が当然存在するため、「A」という人物はこの時間軸上では2人いることになる。
 「世界AのAくん」はこっそり目立つように「賞味期限」を「世界A'のAくん」に見せるように仕向け、うまいこと「世界AのAくん」という存在に気取られることなくパンケーキを全部食べさせることに成功した。回避したい未来はこれで回避されたと「世界AのAくん」は安心して未来へと向かう。
 だが、このとき、「世界AのAくん」が「いる」のは「世界A'」である。「そこ」で未来へ向かうと、たどり着くのは「世界A'の未来」だ。
 当然、「世界A'のAくん」はパンケーキをカビらせることなく全部食べたまま存在し続け、過去に戻る理由もなくなったため、消えることがない。
 結果、「世界AにいたAくん」は元の世界Aに戻ることは「出来ない」のだ。どこまで行っても、既に世界は「A'」であり、時間の移動ではどうにもならない。

 もし、「そんな過ち」を犯すまいと、「もう一度過去に戻って」、「最初に過去に戻ってパンケーキをカビさせる未来を回避させようとしているAくん」を止めようとすると、もっと悲惨になる。
 この「もう一度Aくんが過去に戻った世界」には、「元々いる過去のAくん」と「未来からパンケーキがカビる未来を回避させようとしに来たAくん」と「もう一度過去へ戻って、カビる未来を回避させようとしているAくんを止めようとしているAくん」と、ややこしいが3人のAくんが存在する。
 これを「世界A’’」として、目的通り「未来を変えようとしている行為を止めた」として、やはりAくんが「いる」のは「世界A’’」なのである。
 息を潜めて何もしなかったとしても、「元々いる過去のAくん」がパンケーキをカビさせないよう過去へ戻って消えても、「カビる未来を回避させようとしたAくん」と「それを止めに来たAくん」の2人が残ってしまう。当然、未来へ行っても意味はない。
 それどころか、そもそも「元は存在しない」ものが「存在する」ことによって、「どこ」に影響が出るか分からず、その結果何が起こるか分かったものではない。
 同じ人が何人もいる!と騒ぎにでもなったら、パンケーキどころの話ではなくなってしまって、世界にAくんが3人残る、なんてこともあり得る。

 そして、読んでくれば分かることだが、「過去へ戻った自分」にはあまり得がない。「回避したい未来を回避した」ことを堪能できるのは「元々いた過去の自分」であり、「過去へやってきた自分」ではない。また、時間を遡っても、「自身が経過した時間」は戻らないため、「時間軸に2重に存在した時間分」だけ多く時間経過を味わうことになる。
 例えば、10年と0日0時間0分0秒生きてきた人間が9年364日20時間0分0秒生きてきた時間にタイムスリップし、3分間で何か工作をして元の時間へ戻ったとしても、時間としては10年と0日0時間0分0秒経過したに過ぎないというのに、過去へ戻って2重に過ごした分加算され、10年と0日0時間3分0秒生きていることになる。積み重なると結構大変である。

 ちなみに、タイムスリップにおける「未来へ」行くことはそれほど大きな問題ではない。が、無問題でもない。どういうことかといえば、「未来に向かった瞬間」から「未来に現れる瞬間」まで、その人物は「世界から消える」ことになるのだ。
 未来に向かった当人からすれば、単に「未来にキター」というだけのことだが、周りの世界は、跳躍された時間分をしっかりと経過してきたわけで、結果、「ある日突如行方不明になった人物が、昔と何ら変わらない姿で現代に現れた」となる。
 単なる行方不明ですむので、関係者以外には大したことはない。世界Aから未来へタイムスリップしても、世界Aのままというわけだ。

 ここから過去へ戻ってくることは、厳密に言えば不可能なのだが(未来へ行って戻ってきたという別の世界が出来上がるため、元の世界ではない)、「未来へ向かった後」に戻ってくればそう問題はない。向かった後であれば、たったの1秒でも構わないだろう。
 世界的な視点で見れば、旅立った次の瞬間戻ってきただけだ。無論、未来で経過した時間分「当人の時間」は経過してしまうが、未来を覗くだけなら可能というわけだ。
 もっとも、上記のように「自分の未来」を見ることは出来ないわけで、「未来を知ったこと」がどのように「現在」へ影響するか分からず、結果として「覗き見た未来」とはかけ離れた未来へと向かう可能性も否定できない。とすれば、未来へ行くこともさしたる価値はないかも知れない。

 このように、論理的に紐解いていくと、実に夢のない話だったりする時間跳躍(爆)。パー〇ンのコピーくんより意味のある「自分2人」が出来て便利じゃね?とか思うかもしれないが、食い扶持は2倍になる。みんながやったら人口爆発どころの話じゃないねってことになり、時間旅行などというものは危険が一杯というわけだ。本当に夢のない話ではあるのだが。

 さて、あまりネタもないので、こんなどうでもいい記事を書いたのだが、如何なものだろうか。如何も何も、誰が読むんだよって話になりそうである(爆)。
 まぁ、空想科学系の読本も読んでると面白いこととかもあるし、たまにはいいかな。飛行機を滝の中からカッコよく発進させようとすると墜落するとか、火事を消すために出したウ〇トラ水流が、実はそれによる水害の方が被害が大きいとか、まぁ、そんな夢のない話もいいじゃない(ぁ

 そんなわけで、時間跳躍について考えてみた。誰か1人でも「ほー」と思ってくれたらいいな(笑)。


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