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化物語 ひたぎクラブ~まよいマイマイ [アニメ]

 先日、会社帰りにTSUTAYAに寄っていったのだけど、その際に何となく目にとまったDVDがあった。まぁ、パッケージイラストがよかったのもあるのだけど、ぶっちゃけ、ボクはその辺だけで釣られることはあまりない。女の子が可愛いイラストなんて腐るほどあるしね。
 だけど、自分でもよく分からないのだが、何かフィーリングが合ったというか? 自分のことを何疑問系で言ってるんだと言われそうである(ぁ
 ともあれ、何となく気になったので、ついでに都合よく今出ているVol.1とVol.2が両方とも貸し出しOKだったこともあり、借りて帰ることにしたのだ。

 別にボクのフィーリングがSUGEEEEE!というわけではないだろうけど、結果的に今回の行動は吉と出た。「これは!」と思っても外れることもよくあるから、事実ボクの感性などたかが知れている。今回はたまたま当たったに過ぎない(ぉ

 で、Vol.1の戦場ヶ原ひたぎ編、その1話を観た限りでは、「よく分からないが、ちょっと演出の変わった作品」程度の認識でしかなかったのだけどね。
 実際、何ていうのかな。日本的なホラーというか、そういう雰囲気の演出が多々見受けられる。怪異についての内容なだけに納得の代物なのだけど、これはこれで見る人を選びそうなもの。故に、プラスもマイナスも持ち合わせているから、この点は持ち上げる要素にはならない。

 何がよかったって、実に身近で「深い」のだ。そして、痛烈に「心」を描くから、受け手の心にも届く。同時に、とても強い世間への風刺を感じさせる。
 言葉にすれば簡単だが、こうしたことを描くのは、実は結構難しい。一見したところとてもそうは見えないというのに、やはり難しいのだ。

 とりあえず、個別にエピソードを見てみよう。
 Vol.1は今作のメインヒロインなのかな? の戦場ヶ原ひたぎについての話だった。この戦場ヶ原というキャラは、はっきり言って「変わっている」娘なのだけど、実はそうでもない。態度こそアレだが、その内実は結構素直で優しい子である。
 この子が抱えた痛みが、いったいどんなものであるのか。それを描いたのが「ひたぎクラブ」という括りであり、それはたったの2話でありながら、それだけで視聴者の心を掴む力を持っていた。ほとんどが埒もない会話のようでありながら、そのゆったりとした流れと、押し寄せる急流とのギャップも効果的で、あっという間に「この作品という流れ」へと誘ってしまう。

 何より、ひたぎの抱える痛みは、明確な方程式の存在する悩みなどではない。現実として、そうした出口も見えない苦しみなど、往々にしてあるものだ。というより、元々苦しみとか悩みとか、簡単にどうこう出来ないからこそ苦しいものだ。
 そうであればこそ、苦しみは苦しみとしてリアリティを持つ。ここに、流れへと引き寄せていく力の源があるのだろう。
 劇中のセリフでもあったが、「悪いことではない」というのも本当に頷ける話で、ひたぎの心情を慮れば、楽な方へ逃げたくなるのも当然だ。

 実際、ひたぎの母親も、ひたぎのことを心から愛していたに違いない。信心にすがってでも、大病を患った我が子を助けたかった気持ちは理解に苦しむことではない。
 だけど、それは現実からの逃避でもあった。どうすることも出来ない無力さと、それでもどうにかしたい強い気持ちと、その狭間に立つとき、弱い心は「頼れる何か」を求めてしまった。
 それが悪徳宗教であっても、その時の母親は藁にもすがる気持ちだったのは容易に想像がつく。結果として、我が子が助かり、それは医者の努力の賜物なのだが、「頼れる」ということは、弱い心において、これほど心強いものはなかったわけだ。

 その根底にあるのは、娘への愛だというのに、狂った歯車は家庭の崩壊へと向かう。そのことで苦しむのは、両親のみならず、その原因となってしまったひたぎ本人もだ。娘を思うあまり、「救い」という名の暴走をした母親を常識的判断で拒んだというのに、結果として崩壊した家庭を見るたび「もしかしたら」と考えてしまう。この苦しみが、この痛みが、ボクには痛切に響いた。
 だから、「忘れる」ことで、「切り捨てる」ことで、そこから解放されたいと願うことは、誰がなんと言おうと「悪いことじゃない」だろう。人は、奇麗事で片付けられるほど強くない。苦しくて、苦しくて仕方がないとき、逃げ出したくなるのは当然のことだ。

 なぜ、ひたぎから出た言葉が「ありがとう」なのか。それは、「重い」を「思い」を「奪っていった」のではなく、「取り払ってくれた」からに他ならない。
 だが、やはり「思い」は「重い」のだ。だから、ひたぎは「軽い」のである。人の思いというものは、それほどに「重い」から、それを「取り払った」ひたぎは「軽い」のだ。
 それがどんなに辛く、苦しく、忘れてしまいたくても、「過去」とは自分の歩いてきた道である。そして、自分が自分である以上、背負うべきは自分。苦しみが、痛みが伝わるほどに、「過去と向き合う」ことが光り輝き、心へと響くものだった。

 この心理描写は素晴らしい。たった2話である。たったの1時間である。これだけの時間で、これだけの話はできるのだと、感嘆せざるを得ない。
 しかも、描いているのはそれだけではない。ひたぎのとてつもない痛みを描くことで、輝く強い意志を描くことで、浮かび上がるものが見えるだろうか。

 母親の「弱い心」とひたぎの「強い意志」。親たるもの、子に対する責任というものは重大だ。少しベクトルが狂うだけで、子供には絶大な影響を及ぼす。同情の余地があることとはいえ、母親の心の弱さが、宗教へと走る軽挙が、どれだけ娘を痛めつけたことか。
 「親は、弱くあってはならない。子供を育てることに、命をかけるほど責任を持て!」ボクにはそういう作者の言葉が聞こえてきた。
 同時に、人の心の隙をつくような卑劣極まる犯罪者への強烈な敵意。いるよね、実際。俺俺詐欺でもなんでも、こうした人の弱さにつけ込んで踏みにじるような輩がいればこそ、こんな悲惨な事件も起きる。そして、被害者というものは、これほどまでに傷つき、苦しみ、もがくのだと。

 たった2話でここまで魅せられた作品というのも、そう類を見ない。そして、それは第2部の「まよいマイマイ」でも貫かれていた。タイトルこそ軽いノリだが、描かれている内容は痛切にして強烈だ。あっという間に心をさらっていくパワーがある。

 序盤は、本当に何でもない会話のようであって、その端々に色々とキーワードが散りばめられている。大人向けのコミカルさというか、観ていてただ楽しいというわけでなく、センスのある会話をしている点もポイントが高い。
 こういうものは、本当に作るのが難しい。何せセンスである。ない人にはどうやっても出てこないものだ。こればかりは、なかなか努力では埋まらないところ。

 そうした中で描かれる八九寺真宵の心は、視聴者にどう響いただろうか。この娘の痛みもまた、どこかにありそうなほどリアリティがあり、それ故に身近だ。
 彼女自身が「怪異」であって、今回の事件の「元凶」である。彼女がいるから道に迷う。迷い牛とは、彼女自身を指していた。
 これは「なぜ」だろう? ここに、彼女の痛切な思いが込められていた。悪意をもって迷わせようとしているわけではない。「辿り着けない」のだ。

 そう、彼女は地縛霊。強すぎる思いから、その「場」から離れられなくなった霊だ。では、その「思い」とは何か? つまりは「辿り着けなかった」なのだ。某きのこ氏風に言えば、「因果の逆転」である。因果とは、ボクも度々口にするけれど、「原因があり結果がある」ということ。
 だから、真宵の果てしなく強い「辿り着けなった」という無念が彼女自身を縛り、因果の「果」、つまり「結果」として現れてしまう。本来、原因あってこその結果だが、その逆転現象として、結果に引き摺られる形で原因が発現するわけだ。
 故に、「辿り着けない」のは「迷う」からとなる。真宵自身、迷いたいわけではないというのに、本当に余程辿り着けなかったことが無念だったのだろう。そこに縛られつづける限り、何度やっても辿り着くことは出来ない。だから、彼女は迷い牛なのだ。

 この無念が、痛みが、抉るように心に響いてくる。こんな小さな女の子が、これほどの痛みを抱えることに、どうしてなってしまうのだろうか。
 真宵という子は、優しくて、明るくて、元気で、歳相応の可愛らしさを持つ普通の女の子である。そんな女の子が辿るには、あまりに悲惨な出来事ではないか。

 真宵の言葉から、両親は見栄っ張りで外面を気にするタイプだったと想像がつく。真宵の口調はやたらと丁寧で、それを躾たのは両親だろう。また、外では「仲のよい夫婦」と評判だったというのに、中から見る両親はケンカばかりしていたのだから、おそらく間違いない。
 結局、そこにあるのは自己中心的な考えなのだろう。子供ありきではなく、まず自分ありき。そんなことだから、まだまだ小さい子供がいながら、離婚などという結果を選択したのではなかろうか。それが、子供にどれほどの影響を与えるかも分からずに。

 子供からしてみれば、父も母も、どちらがどうなどということはなく、等しく愛情の対象だ。そんな愛しい人が、ある日突然いなくなることが、子供にとって何を意味するのか。母親を思い出せなくなっていることに焦り、母を求める気持ちが、誰に非難されよう。
 ただ、ただひたすらに会いたかっただけ。それだけだ。その純粋な一心で会いに行っただけだというのに、真宵はそこで永遠に辿り着けなくなってしまった。
 無念だろう。簡単に「分かる」と言えないほどに無念だろう。両親が好きで好きで、ただそれだけの真っ直ぐな気持ちが、信号無視で飛び込んできたトラックに潰されたのだから、これほどに切ないことなどない。あまりにあまりな結末である。

 主人公阿良々木暦は、その痛みが分かる人間だ。自身も辛い過去があるのだろう。誰かを恨まずにはいられないほどだったのかも知れない。だからこそ、手を差し伸べることの意味を、強く知っているのではないか。
 真宵は、自身の思いに引き摺られて「見えてしまう」人を拒絶していた。誰を恨むことなく、巻き込むことのないよう、「辿り着ける」よう、拒絶する。
 この優しさが分かるだろうか。自身の「辿り着けない」ことに巻き込みたくないのではない。「家庭に事情を抱え、帰りたくない」人を、そうであって欲しくないから巻き込みたくないのだ。この心の声は強く響く。「もう二度と辿り着くことが出来ない」そういう存在もあるのだと。

 それが分かるから、暦は真宵を放っておけなかったのだろう。両親が好きで、ただただ会いたかったが故に辿り着けなかった無念。これを晴らしてあげるには、ただ1つ「辿り着くこと」でしかあり得なかった。真宵の優しさと、強い無念と、純粋な思いがあればこそ、たったこれだけの出来事であっても、強く心に響くのだ。

 そして、ひたぎクラブ同様、こうした痛みに苦しむ心の裏側には、痛烈な風刺が隠されている。やはり、親は子供に対して責任を持つべきだということ。
 近年増えている離婚。驚くことに多いのは、埒もない理由な上自分勝手な理屈での離婚である。自身を大事にすることは構わないが、間にいる子供の気持ちは考えているのか? 子供は両親の道具ではなく、一個の個人である。
 その個人を守り、鍛え、育むこと。それこそが親の責任であり、無責任に手放していいものじゃない。それが作者からの痛烈なメッセージではないだろうか。
 また、社会的にも目を覆いたくなるような理不尽な死が紙面に躍る昨今。その悲惨さが、どれほどの痛みを、苦しみを生むのか。親を求めて青信号を渡っていた小さな女の子が、暴走トラックの犠牲になるなど、あってはならないことではないか。
 こうした点も、作品を通じて強く訴えているように思えてならない。ボクとしても、かなり賛同する内容でもあり、深く心に響く内容である。

 演出が少々特殊な分、やや観る人を選ぶような傾向があるように思えるが、描かれている内容そのものはとても強く、重いものだ。一見するところの「軽いノリ」は物語の「核」を輝かせるためのエッセンスでしかない。
 話数にして5話を観ただけなのだが、かなり心を持っていかれたボクがいる。これは、ボク的にかなりのHITになったということだ。リアルタイムで観てなかったことが悔やまれる。
 この作品が何話構成なのかは知らないのだが(Vol.2が3話入っていたから、Vol.1の2話を考えて3*8の24+2で26話構成っぽいけど)、とりあえず、毎月1巻ずつDVDは出るのだろうから、これからはレンタル開始と同時に争奪戦へと参戦することになりそうだ。
 今回は都合よくVol.1とVol.2を両方借りられたが、結構ないことが多い。つまるところ、人気がありそうなものなので、これは心して争奪戦に参加せねばなるまい。

 5話まで観て、点数をつけるとしたら90点はつける。ボクは自分で言うのもなんだけど、ぶっちゃけウザいくらいに点数が辛い。基本的に疑ってかかるので(爆)、いきなりこの点数をつけるのは異例とさえ言える。だが、そのくらい「すげぇ!」と思った。
 次のVol.3も近いうちに発売されるだろうし、実に楽しみな一作となった。次が待ち遠しい反面、本当にリアルタイムで観なかったことが悔やまれる。
 まぁ、最近TVの視聴環境を整えたこともあって、「観なかった」というよりは「観られなかった」という方が正しいわけだが、やっぱり悔やまれるなぁ…。

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